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大阪地方裁判所 昭和30年(わ)2351号 判決 1960年3月30日

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

一、公訴事実の要旨

被告人両名は、投資名下に金員乃至株券類を騙取せんことを相諮り、昭和二十七年十月頃より無登記にて株式会社三和相互投資金庫の商号を用い、被告人米津が社長、被告人長棟が常務と称し、次いで昭和二十八年二月五日資本金百万円、右同一商号にて登記後、被告人米津が代表取締役社長、被告人長棟が常務取締役総務部長(後に専務取締役、総務部長兼経理部長)に就任し、被告人米津がその経営一切を指揮統轄し、被告人長棟が被告人米津を補佐してその業務一般を管掌することとし、ここに両名共謀の上、同社が自らは何等の事業をも営まず、又他の有力会社に融資して金利を得るなどのこともなく、同社の所謂傘下会社である三和融資株式会社、三和相互交通株式会社、三和土地住宅株式会社もそれぞれ収益が挙がらず、剰さえ広告宣伝費、本社費、営業所費等莫大な失費があり、従つて所謂投資をする者に対し、確実に元利金の返済をするだけの収益を挙げうる見込がなかつたにも拘らず、株式会社三和投資金庫は昭和二十六年創立され、資本金二千万円にして常に精密な統計調査と優秀な投資技術を以て総ての重要産業部門に投資し、又前記傘下各会社の合理的経営に依り、月一割以上の高利潤をえているから、元利支払は絶対間違いない旨の虚偽誇大な事実を標榜して印刷物の配布、新聞広告、直接勧誘等の方法により、昭和三十年八月二十九日付、同年十二月二十日付及び昭和三十一年四月二十七日付各起訴状末尾添付の一覧表記載のとおり(各犯罪一覧表を引用する。)各被害者をして夫々株式会社三和相互投資金庫は堅実な会社でその純益により確実に元利金の返済をうけうるものと誤信させ、因て同人等より投資名下に現金合計一億千二百七十二万四千七百五十円及び株券合計七万千九百六十株を夫々受取り騙取したものである。

二、当裁判所の判断

1、被告人両名の経歴及び地位

被告人米津は、鮮魚商を営む家庭に六男として生れ、尋常高等小学校を卒業し、その後東京芝浦電気株式会社の工員をしたり、鮮魚や果物の小売商を営んだりするなど、およそ金融とは関係の薄い仕事に従事していたのであるが、昭和二十五年の年末頃、知人の紹介で日本勧業融資という庶民金融機関に集金、契約係として入社した頃より、金融事業に興味をもつようになり、昭和二十六年八月頃には、友人と共に日本興業商工協同組合という無尽類似の機構を設立してその運営に当つていたのであるが、昭和二十七年七月頃、新聞広告を通じて富士相互投資金庫が大阪における支店長を募集していることを知り、それに応募して同支店長に就任し、投資金の受入の業務に従事しているうち、同金庫代表者田中忠夫と意見が対立して支店長の職を辞し、昭和二十七年九月末頃、自己が採用した社員と共に新に三和相互投資金庫を設立し、逐次その傘下に三和融資株式会社、三和相互住宅株式会社、三和相互交通株式会社、三和広告株式会社の諸会社を設立し、いずれもその代表者として事業全般を指揮統轄していたのであるが、昭和二十八年十二月十五日、支社長、営業所長らの要求をうけてその地位を去つたもの、

被告人長棟は、染物業を営む家庭に長男として生れ、乙種実業学校を卒業して後、家業である染物業に従事していたのであるが、他より預つていた染物を入質したことで業務上横領の罪に問われたところより、家業を廃して職を探しているうち、父の友人粂和吉を介して被告人米津と知り合い、当時同人が支店長をしていた富士相互投資金庫大阪支店に勤務することになり、経理課長をしていたのであるが、被告人米津と共に同支店を退職して三和相互投資金庫を設立し、常務取締役或は専務取締役として、主として経理関係部門を担当すると共に被告人米津の業務の執行を補佐して事業一般を管掌し、併せていわゆる傘下会社である三和融資株式会社、三和広告株式会社の取締役の地位を兼ねていたのであるが、被告人米津と同様、昭和二十八年十二月十五日、支社長、営業所長らの要求をうけてその地位を去つたもの

である。即ち、被告人米津は、本件三和相互投資金庫の設立主唱者であり且つ設立後の代表者として、いわばその経営者としての地位を保有し、被告人長棟は、この種事業の運営につき最も重要視すべき経理関係の担当責任者であり且つ被告人米津の補佐役としての地位を保有し、相協力して三和相互投資金庫の運営に当つていたものと認められ、その軽重はともかくとしても、同金庫の運営につき全般的な責に任ずべき地位にあつたものと認められるのであるが、その学歴並びに経歴に照してすでに明白なように、この種事業の経営担当者として当然に必要とされる金融関係の専門的知識はもとより一般的経済知識を豊富に持ち合せていたわけでもなく、わずかに被告人米津において、数年前より庶民金融機関に関係を有し、その運営の経験を有していたに過ぎないのであるが、これとても、零細な資金を扱う小企業であつて、三和相互投資金庫のごとく数億の資金を集めてその運用に当る者の経験としては、正にとるに足らぬものであつたと認められる。このような経営担当者の専門的知識乃至経験の欠除が、本件のごとき事業を計画し、受入れにかかる投資金を返済不能に陥らしめた主要な原因をなしていると認められ、この意味で自己の能力を省みずに相協力して三和相互投資金庫を設立し運営していたことは、被告人両名の責任非難の根拠として重要な意味を有していると考えられると共に、他面、このことは、当時類似金融機関が多数設立せられ、全て表面もつともらしく運用されていたとの事実と併せ考えると、自己らの能力を過信したとの意味において、被告人両名の犯意を考察するに当り重要な意義を有するものと考えられる。

2、三和相互投資金庫の設立

(イ)  設立するに至つた事情

被告人米津がかつて支店長をしていた富士相互投資金庫は、一般大衆より投資名下に金員並びに株券などを受入れ、それを他企業に再投資して利潤を挙げ、その中より投資者に対し高率の配当をしようとするものであつた。被告人米津は、新聞広告により同金庫大阪支店長に応募したのであつたが、その際同金庫社長田中忠夫よりその事業内容を聞かされ、果してそのような高率の配当をして事業が成り立ち得るかどおか疑問に思い、一時はその就任をためらつたのであるが、右田中より再投資の方法如何によつては充分成り立ちうると聞かされた上、同人よりのたつての願いもあつて同支店長を引受けることにした。そして、約二ヶ月の後、前記のように田中社長と意見が対立し、大阪支店長の職を辞することになつたのであるが、差し当つて就職する先の目途もなかつた上、過去二ヶ月の経験から推してかような事業をやりぬく自信が出来たので、この際、一つ富士相互の向うを張つてそれと同種の事業を興し、右田中を見下すまでになつてやろうとの対抗意識にかられ、当時の同支店経理課長であつた被告人長棟、庶務人事関係の仕事をしていた内海孝良、営業関係の仕事をしていた大石忠雄、糊谷和義、中川光男らにこのことを謀つてその賛同をえ、ここに新規投資会社を設立する運びになつたわけである。このように、三和相互投資金庫は、被告人米津の発案で、同人と共に富士相互投資金庫より退職を余儀なくされていた被告人長棟らの賛同をえて設立されることになつたのであるが、今後受入れるであろう投資金を着服などして、不正な利益を得てやろうとの意図をもつて初められたものとは認められず又被告人両名においてこの種事業の経営の困難性について充分の認識があつたものとも認められない。むしろ被告人米津としては、富士相互の田中のやれることが自分に出来ないはずはないとのまことに単純にして素朴な考えのもとに設立を計画し、被告人長棟らがそれに追随して行つたのが実情であると認められる。

(ロ)  被告人らが企図した三和相互投資金庫の事業形態

三和相互投資金庫は、その設立されるに至つた経過が前記のとおりであつた上、設立首唱者である被告人米津をはじめ設立関係者のすべてが、いずれもこの種事業の経営についての専門的知識に乏しかつたため、事業の合理的、健全な経営につき必ずしも充分の計画、見透しをもつて発足したものとは認められないのであるが、富士相互投資金庫と同様、広く一般大衆より投資金を受入れ、これを他企業に再投資して利潤をあげ、その中より投資金に対する利息の支払をしようとするものであつたと認められる。そして、その再投資の方法としては、金融、土地、住宅などのいわゆる傘下会社を設立し、受入れにかかる投資金をそれら諸会社に注入し、その運営の妙をえて高利潤をあげ、それを自己のもとに吸収して金利並びに諸経費の支払に当てようとするものであつた。もつとも、設立当初においては、そのような利潤を生ずべき傘下会社が存在したわけではなく、又充分の資金の準備もなかつたので、もつぱら出来うるだけ多額の投資金を受入れ、地方営業所などの投資金受入れのための機構の確立を第一義としていたのであるが、いずれは右のような傘下会社を設立しようとの構想をもつて発足したものと認められる。

ところで、三和相互投資金庫においては、投資金の受入れに際し、いわゆる投資者との間に投資契約と称するものを締結しているのであるが、その内容は、現金投資の場合においては、一口五千円以上の金員を受入れ、それに対する利息(最初は配当金と称していた。)として、期間三ヶ月のものは月三分三厘、六ヶ月のものは月三分五厘、一年のものは月三分八厘、二年のものは月四分二厘、三年のものは月四分七厘の各割合のものを確定日に支払うこととされており、証券投資の場合には、その銘柄を一流上場株に限定し、その価格は前日相場の五割として計算し、その利息として、期間三ヶ月のものは月二分、六ヶ月のものは月二分二厘、一年のものは月二分五厘、二年のものは月二分八厘、三年のものは月三分の各割合のものを確定日に支払い、いずれも満期日には投資金額又は株券を投資者に返還し、現金投資の場合にのみ中途解約を認めることとされていた。このように、三和相互投資金庫における投資金の受入れ方式はその事業形態と併せ考えると、一種の信託契約のようにもみられうるのであるが、受入れにかかる投資金の運用の実績如何に拘らず元利の支払が確定的なものとされているところから考えると、むしろ一般市中銀行における定期預金と極めて類似していると考えられ、ただそれに比しはるかに高率の利息を支払うこととされている点に特殊性が存するものと認められる。

このように、三和相互投資金庫においては、受入れにかかる投資金を傘下会社に再投資して利潤を収め、それによつて投資金に対する利息を支払おうとするものであるが、その利率は右のような月二分乃至四分七厘にも及ぶものであるから、その利息を支払いうるためには、諸経費を見込んで再投資における利潤は相当多額なものにならねばならないと考えられる。そして、それが果してどの位の額のものであればよいかとの点については必ずしも明白ではないけれども、少くとも被告人両名としては、月一割程度の利潤を収めるならば利息並びに設立、維持に要する諸経費を支払つてなお余りあるものと考え、そのような利潤を確保するため、株式投資などのいわゆる投機的なものを避けて、金融、土地、住宅などの傘下会社の設立を予定していたことが認められる。このような被告人米津の考えは、厳密な検討を経た結果のものではなく、富士相互投資金庫の大阪支店長時代に、同金庫社長田中忠夫より聞かされ、自身も又その乏しい知識と経験から判断してその旨信用していたに過ぎないのであるが、当時の経済情勢はいわゆる朝鮮動乱ブーム以来膨脹を続けていた上、インフレえの要因を多分に蔵し、貨幣価値の下落によるいわゆる「債務者利潤」を見越すなどして資金の需要が多かつた反面、銀行による中小企業向金融は却つて引締められていたため、この種企業にあつては市中の貸金業者よりの高金利の金融に依存しなければならず、現に月一割にも及ぶ金利であつても、なお融資希望者が多数存在したとの事実などから判断すると、まことに無理からぬものと思われる。もつとも、後述するように、三和相互投資金庫においては、昭和二十七年十月より翌二十八年十二月までの一年余の間において、合計約六億九千万円にも及ぶ現金並びに株券類を受入れているのであるが、このような多額の資金を集めて事業を運営して行く者の立場として考えるなれば、被告人両名らが三和相互投資金庫を設立するに当り考慮した右のような諸点は、正に不健全且つ杜撰であり、そのような事業そのものの成立の可能性すら否定すべきであろうが、当初よりそのような多額の金員を受入れることを予定していたものとは認められず、むしろ意表外であつたと認められるから、その設立当初より受入にかかる投資金が返還不能になることを予見しながら、あえて右のような事業の設立を企図したものとは認められない。

3、三和相互投資金庫の運営

(イ)  投資金を受入れるための機構

前記のように、三和相互投資金庫は、昭和二十七年九月末頃、その発足をみたのであるが、当初より法人としての登記がなされていたのではなく、昭和二十八年二月五日に至り、ようやく資本金百万円の株式会社として登記せられた。そして、本社を大阪市に置き、そこには総務、経理、営業、地方統轄及び企画の各部を設け、それぞれの事務を分掌せしめると共に、各地に支社、営業所又は出張所を設置し、その数は、昭和二十七年十月には仙台に一ヶ所であつたのが、同年末には十三ヶ所、翌二十八年六月には百二十六ヶ所、同年十二月には二百四十三ヶ所の多くを数えるに至つた。そして、投資金の募集は、主としてこれら支社、営業所、出張所などの地方出先機関において行われたのであるが、これら各機関を構成する職員は、新聞広告或は縁故などを頼つて採用され、その際、被告人両名から直接にか、或は他の職員を通じて間接に、被告人両名を含む本社首脳部において決定された後述するような三和相互投資金庫についての説明を聞かされ、おおむねそれを信用して投資金の募集に従事し、投資をしようとする者に対してそれらの事柄を更に説明して投資者の獲得をなし、受入れにかかる投資金は即日本社宛送金することとされていた。

(ロ)  投資金を受入れるための宣伝活動

三和相互投資金庫は、広く一般大衆より投資金を集めようとするものであつたから、投資金を募集する方法としても、いわゆる広告の方法を重視せざるを得なかつた。そして、銀行など在来の金融機関よりも信用が薄く、しかも他に類似するいわゆる投資会社が多数存在したため、他より有利な条件で投資金を受入れることとする外、事業自体が安全にして且つ元利金の返済が確実であることを強調する必要があつた。そのため、三和相互投資金庫においては、金利の面においても、投資者を遇する面においても、他の類似機関より以上のものが採られていたのであるが、それらのことを広く一般大衆に認識させるため、極めて大規模な宣伝、広告活動が行われていたのである。そして、その具体的方法としては、新聞広告、新聞折込のチラシ、立看板、ポスター等の掲示、ビラの散布など印刷物を通じての宣伝と、本社並びに支社、営業所、出張所の職員が個別に口頭を以て勧誘するなどの方法がとられていた。そして、右のような印刷物の内容と口頭を以て勧誘する際の説明内容は、いずれも被告人両名の決済又は関与のもとに決定されていることが認められる。

ところで、それらの宣伝内容については、各印刷物によつて内容が区々であり、口頭による説明に至つては更に内容が整一ではないけれども、いずれも受入れにかかる投資金を有利な事業に再投資して利息を上廻る利潤をあげているから元利の支払は間違いないとのことを骨子とするものである。即ち、設立当初においては、三和相互投資金庫は、昭和二十六年に創立せられ、資本金二千万円の株式会社にして基礎資金が堅実であり、受入れにかかる投資金は、大阪中央市場の荷受機関に融資して高率の利息をあげている外、精密なる統計調査に基き中小企業その他の重要産業部門に投資し、経済界の変動に関係なく高利潤をあげていることを内容とするものであり、いわゆる傘下会社が設立せられて後は、受入れにかかる投資金をそれら傘下会社に再投資して、そこよりあがる利潤をもつて高率の配当をしているので、元利金の支払は絶対に間違いないとのことを内容とするものであつた。そして、保全経済会が休業を宣言した昭和二十八年十月二十四日より後においては、三和相互投資金庫は保全経済会とは異つて、法律上認められた株式会社であり、傘下会社が堅実に運営されているから、財政的基礎が強固である旨の宣伝をなしている。そして、それらの内容は、前述したところ或は後述するところより自ずと明らかになるように、おおむね虚偽乃至誇大な事実を内容とするものである。

(ハ)  投資金の受入並びに使用状況――主としてその運用の状況

前記のように、被告人米津らは、三和相互投資金庫を設立した当初より、受入れた投資金を再投資して月一割程度の利潤をうるなれば、利息並びに諸経費の支払に事欠かないものと考えていた。そして、そのような再投資の方法として、融資並びに土地、住宅などの諸会社の設立を計画していたのであるが、実際上は、昭和二十八年二月二十七日に至りいわゆる傘下に貸金業を目的とする三和融資株式会社を設立するまでは利潤を生むための活動は何ら行われていない。勿論、この間においても、投資金を受入れているのであつて、その額は、昭和二十七年九月に一万円、十月に四十五万八千円、十一月に約百八万円、十二月に約四百五十五万円、翌二十八年一月に約九百六万円と多額にのぼつているのであるが、それらのうち大部分は、本社並びに支社、営業所、出張所の開設、維持費、広告、宣伝費、人件費、出張旅費など諸経費に充当されている事実が認められる。即ち、この時期においては、受入れにかかる投資金額が少なかつた反面、新規事業の開始時のこととて何かと費用がかさみ、再投資をするだけの資金的余裕がなかつたわけである。ところが、会社設立登記を経た昭和二十八年一月頃より、投資金額がとみに増大し、同月には約千七百万円、三月には約二千万円、四月には約三千三百万円、五月には約四千四百万円、六月には約五千百万円、七月には約八千四百万円、八月には約九千四百万円、九月には一億四千万円、十月には約一億千万円もの多額に及び、元利並びに諸経費を支払つてもなお余りあるようになつて来た。そこで、先ず、昭和二十八年二月二十七日に貸金業を目的とする三和融資株式会社を、同年四月十三日に建築業並びに不動産の売買を目的とする三和相互住宅株式会社を、同年四月三十日に京阪神タクシー株式会社を買収して旅客運送営業を目的とする三和相互交通株式会社を、同年十月十六日に広告並びに印刷出版業を目的とする三和相互広告株式会社を各設立し、更にビルの買収などに着手すべく資金の準備などしていたのであるが、同年十月二十四日、類似機関である保全経済会が休業宣言をしたため、新規受入投資金額が同年十一月には約四千五百万円、同年十二月には約二千二百万円と激減した上、中途解約希望者が続出し、それら準備資金を元利の支払に充てるなどして遂に計画のみに終つているのである。

ところで、右のうち三和融資株式会社は、貸金業を目的とする資本金百万円(同年十月三日に四百万円に増資)の株式会社で、大阪財務局に対して貸金業の届出をなしている。そして、貸付の手続としては、融資申込者の信用状況を調査し、被告人米津の決済を経て、信用あるか又は担保を供する者に対してのみ貸付けることにするなど、比較的厳格な方法を採り、金利も日歩二十二銭乃至三十銭又は月一割とされており、延七千八百万円位の貸付をなし、財政状況は割合良好であつた。しかし、一部の者に対する信用状況の調査に粗雑な点があるなどして同会社に対する投資額合計二千六百六十四万余円に対し、一応八百四十万円位の利益をあげたことになつているのであるが、貸倒れなどの回収不能債権を含め、結局のところ約千四百万円の損失に終つている。

次に、三和土地住宅株式会社は、建築業並びに不動産の売買を目的とする資本金百万円の株式会社で、大阪府建政課において認可をうけ、合計五千七百七十万余円を投入して大阪市内の土地四千六百六十坪、建物四十七坪を買入れている。そして、そのうち一部は買入価格の約一割高で売却し、残余は値上りを待つて保持していたのであるが、保全経済会休業宣言後の資金枯渇の時期において、それらを担保に金を借り入れるなどし、その後いわゆる担保流れとなつて所有権を喪失してしまつているのである。

次に三和相互交通株式会社は、いわゆるタクシー営業を目的とする資本金六百五十万円の株式会社であるが、これは当初より設立を予定していたものではなく、三和相互投資金庫の運転手の口聞きで、京阪神タクシー株式会社と称していたものを千万円で買収したものである。しかして買収の際の約束では、自動車三十台、土地、建物、電話、什器、備品など一切を含み、旧債務は右代金中より支払うとのことであつたのが、実際は、自動車三十台中五台を除いた残余二十五台が運転手のいわゆる持込車で会社に所有権がなく、ガソリン代、運転手の遅配給料、その他の借入金など旧債務の支払をせざるを得なくなつた上、陸運局の要望でガレージ、ガソリンスタンドなどを新設し、又名義貸車の買収、新車の購入、部品の整備、設備の改装費など多額の出費を要し、右買収代金を含めて約一億円を投入しその運営を軌道にのせたものである。そして、その後の経営は比較的堅実に行われていたのであるが、諸経費を差引くと見るべき程の利潤はなく、当初において企図した一割の利潤は遂にあげえずに終つている。

更に、三和相互広告株式会社は、広告並びに印刷、出版を目的とする資本金百万円の株式会社であつたが、その設立の時期が保全経済会の休業宣言直前であつたため、ほとんど何らの事業を行うことなく、名のみの存在であつた。

なお、三和相互投資金庫においては、現金の外に株券による投資も認めていたわけであるが、これらは全て日勧証券の金融部に相保として差入れ、その時価に対する日歩十四銭位の利息で融資をうけ、現金化した上で再投資その他の財源として運用して行つたわけである。

このように、三和相互投資金庫においては、受入れにかかる投資金を再投資して、利潤をあげんとするための努力が全くなされていなかつたわけではない。そして、再投資の方法も、株式投資など投機的なものを避け、比較的堅実にして高利潤をあげうるものが選ばれているのであるが、実際の運営面においては種々の障害のためにその企図する利潤を挙げえなかつたばかりか、終局的には多額の損失に終つているのである。

かようにして、被告人両名は、三和相互投資金庫の組織を通じ、それが設立されてよりその地位を去つた昭和二十八年十二月までの間において、総計約六億九千万円の投資金を受入れている。そして、その中約二億三千九百万円の元金を返済し、約一億八千四百万円を前記のように再投資の資金として使用しているわけである。そこで、その残額二億六千七百万円の使途如何が問題となるのであるが、これらは全て利息金並びに、諸経費の支払に充てられているものと認められ、被告人両名が自己の用途に使用したと認められる分は全くないと云つても過言ではないのである。もつとも、検察官の冒頭陳述書によると、被告人両名の個人収得の状況として、被告人米津に関するものとしては、(イ)昭和二十七年十二月に西宮市上鳴尾町の同人の自宅購入決済資金として十九万余円、(ロ)昭和二十八年四月に大阪市阿倍野区播磨町西一丁目居宅購入代金並びに修理費、ガレージ設置費、応接セツト、什器類等の購入代金として三百二十五万余円、(ハ)昭和二十八年十一月に使途についてはふれていないが二十五万円、(ニ)昭和二十八年十二月中旬にビツク乗用車等を売却した金の中十万円、(ホ)仮払出金形式によるものとして昭和二十八年八月に妻の弟中川光男の結婚式の際三十万円、昭和二十八年十一月九日にスクーターの購入代金として十五万五千円、被告人長棟に関するものとしては、(イ)昭和二十八年十一月に使途についてはふれていないが十万円、(ロ)昭和二十八年十二月中旬にビツク乗用車等を売却した金の中より六万円を各個人に収得したとなつており、いずれも犯意を推定せしめる状況として掲げられている。しかしながら、先ず被告人米津についての(イ)自宅購入決済資金と称するものは、三和相互投資金庫設立当初に被告人が支出した金員の返済分と認められ、(ロ)の居宅等の購入代金は、その居宅が会社名義に登記されていたところから考えても、会社財産として購入されたものと認められ、後日被告人がその地位を去るに際し、同人の妻名義に移転登記をなしているのであるが、これも退任についての話合の際後任取締役の了解をえてしたものと認められ、(ニ)の十万円はいわゆる退職金としての意味合を持つているものと認められ、(ハ)の二十五万円及び(ホ)の三十万円についても、その使途の大部分は出張費並びに営業所員に対する心付など業務遂行のためのものであり、スクーターについても又、三和相互交通株式会社の業務監督の際に使用する目的で購入されたものであつて、純粋に自己の利益のためほしいままに収得したものはほとんどないと認められ、被告人長棟についても(ロ)の六万円は退職金としての意味合を持つものと認められ、(イ)の十万円は被告人米津より受領したものであるが、受入れにかかる投資金額に比すれば犯意を推定せしめるにはあまりにも少額であろうと思われる。そして、利息並びに諸経費に使用した分の内訳については、必ずしも明白になされていないのであるが、利息並びに宣伝広告費、営業所などの開設、推持費がその大部分を占め、給料などの人件費は他の企業と比較して殊更に多額の支払をなしていたとも認められず、仮払いその他の名目で金の出ている社員に対しては、夏期手当の支給をしていないなど、業務遂行の目的以外の出費については、或程度厳格にしていたことが認められるのである。

4、被告人両名がその地位を去つた事情

前記のように、被告人両名は、昭和二十八年十二月十五日、未払投資受入金約四億五千万円を残したままその地位を去つているのであるが、このことは被告人両名の本意に基くことではない。被告人両名としては、あくまでもその責任上、出来うれば事業の継続を、そうでなくても出来るだけ多額の元利金の返済をなしとげたいと考え、種々の努力を続けていたのであるが、同年十一月に至り、遂に元金の払戻しはもとより利息の支払をもなすことができなくなつた。そして、そのため元利金の支払を求めて本社に出張した各地営業所長などの間において、被告人らを退陣させて新に役員を選任し、新構想をもつて金庫の運営に当ろうとの議が起り、そのための交渉の代表格に選ばれた当時の奈良支社長尾上重太郎らの要求をうけ、事態を解決するためにはそれも又止むなしとの考えのもとに、その地位を去つたのである。従つて、被告人両名が中途にしてその地位を去つていることは、いわゆる責任を回避したものとして、当初より事業の健全なる運営を意図していなかつたことを推定せしめるわけでもなく、むしろ、当時未だ相当多額のものが残つていた三和相互投資金庫の資産に対し、何らの魅力を示さなかつたものとして、両名の犯意の考察に重要な意味を有するものと考えられる。

5、被害者側の事情

本件各被害者が、三和相互投資金庫に対し、いわゆる投資をなすに至つた事情については、各人につき各様であり、或る者は生活費の補助のために、或る者は小遣として使用するために、或る者は子供の教育費を残すために、更に或る者は療養費を捻出するためになど種々のものが存するのであるが、各人につき一様なのは、いずれも投資元本額に対する利息の割合が極めて高いという点にひかれて投資をしていることである。そして、何故に銀行などと違つてこのような高率の配当をなしうるのか一応疑問を感じ、その点についてせんさくすることを怠つていない。そのため、大部分の者は宣伝用パンフレツトの記載のみではあき足りず、支社、営業所、出張所などに歩を運んで前記のようなその理由の説明を聞き、或は、勧誘員などの職員の訪問をうけて同様の説明をうけ、その内容をおおむね信じて投資をしていることが認められる。

ところで、本件被害者の中には、類似利殖機関である保全経済会が休業宣言をなし、元利の支払を停止したため、各地に取付騒ぎが起り、更に新聞、雑誌、ラジオの放送などを通じ、この種利殖機関に対する投資の危険性が警告された時期以後において、なお投資をした者が存在している。そして、その中には、そのような事実を全く知らなかつた者もあるし、そのことは知つていたが三和相互投資金庫は大丈夫だろうと思つた者もある。しかして三和相互投資金庫においては、その時期以後の宣伝文句として、匿名組合と株式会社の相違を説き、更に傘下会社の堅実性を唱えていたこと前記のとおりであるが、すでに類似の高利金融機関において右のような状態に立至つている以上、三和相互投資金庫においても、早晩それと同種の結果を招来する運命にあることは当然予測しうるところであつて、その宣伝内容の虚偽性は容易に看破しうべく、これをしも通常人を錯誤に陥れるに足るものとは考えられず、投資者の各人が事実いか様に考えていたにせよ、果してそれにより錯誤に陥つたと評価しうるか否かはなはだ疑問であろうと思われる。

6、詐欺罪の成否

前述したように、三和相互投資金庫においては、被告人両名らがその設立当初において企図していたところとはおよそ異り、受入れにかかる投資金を再投資して所期の利潤をあげることができず、元利金の支払はすべて新規受入投資金に依存していた実情にある。しかるに、被告人両名は、かような事実を知りながら、自から直接にか又部下職員を通じて間接に、前記のような広告、宣伝活動をなして投資金を受入れていたわけである。従つて、被告人両名において、虚偽乃至誇大な事実を広告などする手段により、投資金を受入れようとする意図のあつたことを否定することはできない。しかしながら、詐欺罪は、いわゆる領得罪であるから、かような意図即ち手段の虚偽性について認識があれば足りるわけではなくそのような手段により財物を騙取する即ち不法に領得するとの意図がなければならない。しかして本件にあつては、被告人両名が三和相互投資金庫の設立を計画した当初より、今後受入れるであろう投資金を着服するなどして、自己らの用途に供しようとした意図を有したと認められないことはすでに述べたところであるが、その後においても、そのような意図を持つていたとは認められないのである。このことは、被告人両名が受入れにかかる投資金をほとんど私用に供していないとの一事をもつてしても明白である。そこで、本件について、被告人両名に詐欺罪の犯意があるか否かは、被告人両名において、受入れにかかる投資金が返済不能に立至ること或はその可能性のあることを認識しながら、敢てそのことを意に介さずに投資金の受入れをなしたか否かが問題となると思われるのである。

そこでそのような意味における犯意があつたか否かについて考えてみるのに、まず、この点についても、設立当初においてそのような犯意のなかつたことはすでに述べたとおりである。しかるに、その後の段階においては、当初において意図していた程の再投資利潤をあげているわけでもなく元利の支払は新規受入れにかかる投資金で賄つている状態であつたことは前記のとおりであり、被告人両名共そのような事実を知つていたわけであるから、或は右のような意味での犯意があつたのではないかとの疑が生ずるのであるが、果してそれがどの段階から生じたと見るべきかは問題であろうと思われる。そこで、当裁判所としては、前記認定の諸事実を綜合判断した結果、保全経済会が休業宣言をなした昭和二十八年十月二十四日を一応の基準とし、それ以前の段階においては、新規投資受入が多額にのぼり、その上充分なる利潤をあげていないにせよ、いわゆる傘下会社を設立して再投資利潤をあげるための努力を重ねており、それら事業経営も未だ初期の段階でその成果について充分の検討が加えられていたわけではなく、その運営の不健全ないし杜撰はいずれも被告人両名が意識して殊更になしていたのではなく、両名の専門的知識の欠除、経営無能力に基くものであると認められるので、そのことのゆえに、被告人両名において投資元利金が支払不能になることを予見し、且つそれを意に介せずに事業の運営に当つていたとみるにはいささかの疑問があることなどの諸点に基き、犯意がないものと認め、それ以後の段階においては、類似機関の休業により新規受入投資額が減少し、被告人両名共自己の事業について再認識をなし、やがて同様の運命に陥るであろうことを充分予測しえたと認められるので、この時期以後に更に積極的に宣伝活動をなして投資金を募集した分についてのみかような事情の存在を認めることにしたわけである、しかして、その時期以後の欺罔手段と認められるべき各種宣伝活動の内容は、前記のとおりすでに詐欺罪にいわゆる欺罔行為と云えるか否か疑問があるばかりでなく当時四億数千万円にも及ぶ未払投資受入金を抱え、今後多数投資者よりの元利金の支払要求をうけることが予想された被告人両名の立場としては、今直ちにそのような宣伝活動を中止し、元利の支払を不能にするよりも、そのような時期の一日も遅からんことを希求するのは、正に人情自然の赴くところと考えられ、その際前記のような元利金の返済不能に立至ることを予見しながら、あえて投資金の募集を継続したとの事情が認められたとしても、それを犯意と評価するにはなお幾分の疑問が存するのである。

以上において説明したとおり、本件については、被告人両名において受入れにかかる投資金を騙取しようとした事実が認められず、又欺罔行為とみるにはいささか疑問の点も存するので、結局、その余の点について判断するまでもなく、犯罪の証明がないことに帰する。

よつて刑事訴訟法第三三六条に従つて被告人両名に対し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 網田覚一 裁判官 西田篤行 裁判官 岡次郎)

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